英語の記事を日本語に訳して読んだら、理解のレベルはどれだけ変わるのか
英語の記事を読んでいて、途中でふと「これ、日本語に訳して読もうかな」と思うことがある。
母語で読んだ方がラクだし、内容もちゃんと入ってきそうだから。でも、そこでちょっと立ち止まって考えてみた。
日本語に訳したところで、理解のレベルってどれだけ変わるんだろう?
これが、この文章を書きたくなった出発点だ。
「読みやすさ」と「理解の深さ」は別物 #
確かに、日本語で読んだ方が読みやすい。これは間違いない。母語じゃない英語は、読むのに時間もかかるしエネルギーも使う。
でも、「読みやすさ」と「理解の深さ」は、必ずしも同じ話ではない。
日本語で読むと、文字列を見た瞬間に意味が取れてしまう。だから、パパパッと流し読みしてしまう。知っているようなことが書いてあったら「はいはい、これね」とスキップしてしまう。最後まで辿り着いたときに、自分が「理解した」のか「読み終えただけ」なのか、その区別が曖昧なまま本を閉じることになる。
一方、英語で読むと時間がかかる。一文ずつ構造を追わないと意味が取れないから、流し読みができない。日本語ならサッと飛ばしてしまう箇所も、強制的にじっくり読むことになる。
遅さが、理解を作る #
つまり、こういうことになる。
- 日本語で読む:速いけど、理解は浅いまま通り過ぎてしまう
- 英語で読む:遅いけど、一つ一つの文と向き合うことになる
「日本語に訳せば理解のレベルが上がる」というのは、直感的には正しそうに見える。母語なんだから、より深く分かるはずだ、と。
でも実は、これは成り立たないんじゃないか。
むしろ逆で、日本語に訳した瞬間に「スキップできる読み方」が可能になって、理解のレベルがかえって下がるということすら起こりうる。訳すことで得られるのは、「理解」ではなく「読みやすさ」だけかもしれない。
英語で入った知識は、英語のまま馴染んでいる #
これは少し別の話に見えるかもしれないけど、根っこは同じだと思う。
英語の論文で最初に触れた知識って、むしろ英語のまま読んだ方が分かりやすく感じる、くらいのことが起こる。日本語訳に出会うと、訳語が微妙にズレていて、「あれ、これ元の言葉だと何だっけ」と頭の中で逆に戻って照合することになる。
知識には、それを最初に入れたときの言語が染み込んでいるんだと思う。英語で入ったものは、英語のまま読んだ方が素直に出てくる。日本語に訳した瞬間に、むしろ一段階遠くなる。
「英語の方が分かりやすい」という感覚は、勘違いでもなんでもなくて、わりと筋が通っている。
結論 #
英語の記事を前にして「日本語で読もうかな」と思ったとき、それは理解を深めるための選択ではなく、単に「ラクをしたい」という選択である場合が多い。少なくとも自分の中では、この二つをごっちゃにしてはいけないと思った。
原文が英語のものは、英語で読み通した方が、結果として書いてあることをちゃんと理解できる。
「読みにくい」という感覚は、理解の敵ではなく、むしろ味方なのかもしれない。